<第2話>

横浜のイベントでブリキの鉄人を購入することが出来ずに傷心の旅から帰った僕は仕事中もブリキのおもちゃの事で頭がパンク!思考能力が止まってたねぇ

 とにかく情報が欲しい、昔は殆ど情報誌とか無くっていろいろな店探しは先ず自分でウロウロするかないのよ
喫茶店やレコード屋探しも1970年代はプガジャの「大阪青春街図」位でね・・こんなん知ってる人おる?

 1980年代には僕たちにおもちゃのバイブルが一冊ありました、そうです大阪ブリキ玩具資料館というところが出してた「ブリキのおもちゃ」
いい本でした読みすぎて表紙が外れるほどボロボロになったっけ・・(あとは北原さんのシリーズとかね、よく見ましたわ)

 おもちゃの世界はこれからどうなって行くのか悶々とするなかで相変わらず友人と2人のフリマ出店は続きます
ある日北加賀屋のフロンティアランドというところで出店した時のことです、一人の客が熱心に僕の出してるおもちゃを見ているではありませんか
その様にただならぬ気配を感じた僕はすかさず声をかけました「おもちゃ集めてはるんですか?」  客:無言で去る・・  横で相棒が大笑い
僕:何笑っとんや?  相棒:アホッ今のが熊谷さんや! あの本書いた人やないか  
すごい大ベテランに向かって「おもちゃ集めてはるん」ってそんなんゆうたんお前が初やわって、当時随分このネタで仲間にからかわれたものです
しかし僕は本は読んでたが著者の顔まで知らんし、まさかそんな人がフリマに来るって思わなんだしなぁ
これが「大阪南港トイマーケット」のパートナー・大阪ブリキの社長との初出会いやったんです・・本人はそんなん覚えてはらへんけどね
 
 アメ村で喫茶店をやってますと(1985年頃)実にいろんな客が来たものです、ある日のこと突然入ってきた2人連れ、カウンターに陣取り大声でなにやら商談が始まりそうです
なんやなんや思ってると次から次へとアンティークのロレックス他多数のアンティーク時計を並べ始めました、なっなんやこの人?
話しかけると近々アメ村でアンティークショップを開店すると言うではありませんか、アンティーク好きの僕にとっては願ったり適ったりの面白い話し
「店にチラシでも張りますよっ」とすかさず申し出ました、それがいろんな意味で有名な?アンティークマイコ・藤井社長との遭遇だったのです
 (最高におもろいマイコさんのはちゃめちゃブログ是非読むべし・・「ラッキービリケンのひとりごと」で検索)

 そしてそのマイコさんにアメリカから里帰りさせたブリキやセルロイド玩具を京都からせっせと持ち込む英語の得意な「バナナ」の竹内さんという業者がいたので
その人と親しくなりアメリカのカールローベルというトイディーラ−を教えてもらいカタログを取り寄せましたが、まだまだ自分で注文する勇気はありませんでした

 その頃僕のフリーマーケット出店の相棒がなんと会社辞めて転職するまでの余暇に四国へハンティングに行く事に、高知にいるいとこの学生が近くに古いおもちゃ売ってる店が
あるって情報くれたそうです、ところが行って見るとなんとその店はアンティークのおもちゃ専門店(店名失念)もちろんみなプレミア価格ですよね、よって買えません
がっくりしてバスにて四国を北上しながらハンティング、最後にたどり着いたのが愛媛県の伊予西条という街、駅前の公衆電話から電話帳で「おもちゃ」の欄頼りに電話をすると
一軒少し手ごたえのある返事、ワクワクして歩く事約30分〜訪ねたところ 現在の商売はタコ焼き屋 昔露天でオモチャも売ってたテキヤです 近くの倉庫に案内してもらうと
入ってビックリ玉手箱っ!・・・なんと少しあたらしめのブリキのおもちゃが200個くらい、そして奥の木枠内に集められてるおもちゃを見てビックリ、古いブリキがおよそ50点
ビックエックス・ロビーロボット・ゾウとシマウマのシーソー・キングスクーターその他モロモロ どこを訪ね回っても地方のおもちゃ屋はすっかりマニアに根こそぎ持って行かれてる時代に
奇跡の発見をやらかしてしかも1個/500円という破格のプライス、おやじ曰く「ふるいもんはねうちがにゃーさけーなー」って言ってたわやて(笑)ホントこの世界はオモロイもんですね

 僕はというとその後も海外のさまざまなディーラーから取り寄せたカタログを連日眺める日々が続きます、ある日アメリカから送られてきたカタログの中に
どうしも欲しい日本製ブリキのアメ車を見つけました! 我慢できなくなってKDDでアメリカへの電話のかけ方を確認し夜中にドン・フィオーレというトイディーラーに
恐る々国際電話を掛けてみました、英語も満足に出来ない身でそれはほとんど発作的な行動やった(笑)

 トゥー・・トゥー・・なんとも不安にさせる呼び出し音! 突然電話口から「ヘローッ」  うわっ出たわ!(当たり前やねんけど)
ハロー!ディスイズ・・・スピーキング アイワントゥバイ・・・ドゥーユースティルハヴイッ・・・えっパードン? まるで中学生の英語、こっちも必死やからなんとか値切りもして注文成立
翌日中央郵便局からポスタルマネーオーダーにて数千ドルを送金、およそ10日で商品到着 ヤッターやれば出来るんやという自信がつき(今思うと実にアホみたいなことですが)
その後他のディーラー、レックス・バレット、レイ・ロー、トム・セージ、バーバラモーランさまざまな業者からあれやこれやと次から次へと買いまくり
またそれをせっせと売りまくる生活が始まったのです、そんなことを幾度と繰り返していると単なる趣味の範疇を超えて抜けるに抜けぬ底なし沼にズルズルとアー誰か助けて〜

 そしてマイコさんはというと連日客が持ち込むブリキのおもちゃの買取りに四苦八苦・・(売りに来る人ばっかりなんが大阪のスゴイとこなんや)
僕は喫茶店の休憩時間に自転車でフラッと訪ねる玩具問屋の松屋町、ブリキのロボットがロケットに乗ったやつ発見! おばちゃんこれなんぼ? 
500円やけどあんたよう買うてくれるから350円でええよ  もう無いのん? それしかないわ! でマイコさんに売りに行く あんたこんなんどないしたん まあね3万でどう
また後日の松屋街、ソフトビニール怪獣ミニシリーズ発見! おばちゃんこれなんぼ? 1個/65円や へーもぉないの? 倉庫に2千個程あるで ゲー皆貰うからまけてや(爆)

 で大量のソフビをタクシーに積み込みまたマイコさんへ あんたこんな仰山どないしたん まあな全部いっといて20万でええから・・  そーかー悪いなホナもおとこか  
こんな感じで僕以外にも大阪の恐怖の売人達から仕入れた在庫でマイコさんの店内がおもちゃで溢れかえり えらいことになってきた(笑)ので
そこで僕:これ横浜トーイショーに売りに行こぅや! 行こ行こいう事でバナナの竹内さんにも声をかけ3人で横浜初出店の珍道中の始まり々と相成ったのです
前日3人で猛烈な寒波の中横浜関内のサウナに泊まり、ブリキの話ししながら明日の段取り決めて床につく(ザコ寝やから床なんかなかったヶな)

 横浜のトーイシヨーは大半がミニカーとブリキの業者でした、今思うと夢のようにブリキ玩具が並んでたねぇ、熱気もあったしね
値段も東京湯島の専門店ペニーポートなんかロボットやアメ車むちゃくちゃ高くてとんでもなっかたですホンマ、オーナーの故・阪本氏はブリキ相場のパイオニアやったね
(どんなもんでも今の相場の倍はしてたなぁ)
そのペニーポートの弟子サンデイの浜野さんという方もアメリカ仕入れの先駆者やったしねぇ、ホンマ今どうしてるやろか?

 あと皆からマフィアという大変ピッタンコなナイスなあだ名で呼ばれてたルシアンという日本語を巧みにあやつるフランス人(奥サマが日本人でした)がいて実はこの人が僕の師匠です
とにかく毎晩うちに電話してきてあんなん入った、こんなん入ったって・・それは知識も凄かったし、とにかく熱心で博識家やったわ
その電話につき合わされてるうちに自然とブリキのおもちゃの様々なウンチク、いろいろ覚えていったなぁ・・しかしこれは何年も後のこと

 そして横浜トーイショー とにかく人が多い 僕たちのブースでゼンマイロビーを10万円付けてたのですが、他店で3万円くらいで何点か発見! 
あわてて(かっこ悪いんでこっちも値段変更・・3万に)
ところがこちらのロービーは手がブリキ、あちらのブースのものは手がプラスチックなんで向こうは安くて当然なんですがそんなこと僕はあまり理解してなくって
値段の付け方も適当で今より高かったん覚えてるわ、ああ〜懐かしい

 その頃からかね こんな楽しいイベント大阪でなんでやらんのかな〜と漠然と考えていたんですね、数年後自分がやることになろうとは〜判らないものです世の中は・・・

大阪トーイショウ主宰    萩の屋
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